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映画『廃用身』感想|原作を読んだ私と監督では、漆原の見え方が全然違った【ネタバレ】

zenzen

1994年北海道出身、福岡在住。美容師しながら映画・ゲーム・ガジェット・暮らしを実体験ベースで書いています。
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(画像は 映画:「廃用身」公式サイトより)

映画『廃用身』を映画館で観た。
私はこの映画を観る前に、久坂部羊の原作小説『廃用身』を読んでいる。

以前にも小説を先に読んでから映画を観た作品について書いたことがあるんだけど、ぜひそちらも見てみてほしい。

そして今回も、原作を読んでから映画館へ行った。

まずこれだけは言わせてほしい。

小説がおもしろすぎる。

そして、小説が読みやすすぎる。

ここでいう「読みやすい」は、文章が簡単とか、ページ数が少ないとか、そういう意味ではない。
『廃用身』という小説の話の見せ方がめちゃくちゃ分かりやすいのだ。

そして映画を観終わった私は、「そこをそう読んだのか……」という気持ちになった。

映画がつまらなかったわけではない。
むしろ映画館で観てよかったと思う画もかなりある。

ただ、私と𠮷田光希監督では、原作『廃用身』のどこを一番おもしろいと思ったのかが、どうも違うらしい。

※以下、映画・原作ともにネタバレがあります。

映画『廃用身』とは

『廃用身』は、医師でもある久坂部羊が2003年に発表した小説デビュー作。


2026年に𠮷田光希監督・脚本、染谷将太主演で映画化された。
原作は2003年5月発売で、映画は2026年5月15日に公開されている。

廃用身とは、麻痺などによって動かなくなり、回復の見込みもない手足のこと。

主人公の医師・漆原糾は、高齢者医療に携わる中で、使えなくなった手足そのものを切断することで患者本人や介護者の負担を減らせるのではないかと考える。

それが作中で「Aケア」と呼ばれるものだ。

まあ簡単に言えば、老人の動かない手足を切る話である。

ヤバい。

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Aケアが正しいかなんて「分からない」

映画を観ていると、「本人が望んでいるなら、動かない手足を切ってもいいのか?」ということを当然考える。

実際に身体がうまく動かない老人がいる。
介護されている。
排泄まで自分ではどうにもならない。
クソも漏らす。

それを映像で見せられると、小説以上に老人側へ肩入れしてしまう。

「そりゃ、本人からしたら切ってくれと思うこともあるよな」
とも思う。

原作者の久坂部羊自身、高齢者医療の現場で似た状況に接し、「切って楽になるなら切ってほしい」という趣旨の言葉を何度も聞いた経験がAケアの発想につながったと語っている。

だから、Aケアは本当に間違っているのか。
映画を観ながら考えるのは当然だと思う。

ただ、私は小説『廃用身』をそこが中心の作品だとは読まなかった。
というか、Aケアが正しいかなんて分からない。

高齢者ではない私でも、「周囲に迷惑をかけたくない」という気持ちはかなり強く分かる。

じゃあ、そのためなら手足を切っていいのか。

知らん。

「分からない」が正解なのだと思う。

私にとって、この小説のおもしろさはそこではなかった。

私がおもしろかったのは「漆原がどう見えるか」だった

私が小説で一番おもしろかったのは、

漆原本人が思っている漆原と、他人から見た漆原が全然違うこと。
そして、その違いによって漆原自身まで崩れていくことだった。

Aケアが正しいのか。
漆原は善人なのか悪人なのか。
そこに明快な答えを出す話だとは思わなかった。

むしろ、「人間って、自分が思っているほど自分のこと分かってないんじゃない?」という気持ち悪さの方が強く残った。


原作では、一度ちゃんと漆原を信用してしまう

原作の前半では、漆原本人が書いた文章を読む。

だから当然、読者は漆原から見た漆原を見ることになる。

漆原本人の文章を読めば、そりゃ納得する

私は普通に、「おぉ!すごい!」と思った。

Aケアという発想に驚く。

その後、さまざまな問題も起きる。
漆原自身が悩んでいることも書かれている。
Aケアに納得していない看護師がいることだって、別に隠していない。

それでも、その時点で私から見えていた漆原は、今の老人医療を変えようとしている医者だった。

だから途中で、「これ小説? いつまで続くの? こいつの話だけで終わり?」
とも思った。

でも、ここが後から効いてくる。
小説の後半になると、今度は編集者を通して外側から見た漆原が入ってくるからだ。

漆原は別に嘘をついていない。だからおもしろい

ここが私にとって『廃用身』最大の味噌だった。

後半になって、「実は漆原が全部嘘をついていました!」なら簡単なのだ。

騙されてました。
以上。

でも、そうじゃない。

前半の漆原の文章に、決定的な嘘があるわけではない。
反対されたことも書く。
トラブルも書く。
自分が苦悩していることも書く。

それを全部読んだうえで、私は一度漆原に納得している。

ところが外側から見ると、違うものが見えてくる。

患者思いの医師である一方で、前にいた病院の奴らを見返したい。

見栄もある。
不倫もする。
別に医療だけを考えて生きている聖人ではない。

フツーのやつなのだ。

だから私の感想は、

「騙された!」

ではなかった。

「なるほど、こう崩れるのか」

だった。

患者を救いたい医師・漆原も嘘ではない。

見栄っ張りで俗っぽい漆原も嘘ではない。

どっちも同じ漆原だった。

人を扇動していた漆原が、最後には煽動される

そしてもう一つ。

漆原はAケアを説明する。

患者に納得してもらう。

周囲へ広げていく。

言葉が悪いかもしれないが、ある意味では他人を扇動する側だった。

ところが途中からマスコミが入ってくる。

今度は、「老人の手足を切る医者」という漆原像が、本人の知らないところで作られていく。

すると、ずっと人を動かしていたはずの漆原が、今度は他人の言葉によって自分を見るようになる。

扇動していたつもりの人間が、最後には煽動される。

「俺は本当に正しかったのか」

から、

「そもそも俺って何なんだ?」

くらいまで崩れていく。

私はここが小説『廃用身』の一番おもしろいところだった。


映画の漆原は、最初からマッドすぎる

ところが映画版。

漆原を演じるのは染谷将太。
染谷将太なのである。

染谷将太、最初から怪しさ満点なのよ

独特の含みがある。
もちろん染谷将太はめちゃくちゃ上手い。

それに演技だけじゃない。
構図も、カメラも、映画全体が漆原に妙な不穏さを与えている。

実際、別の𠮷田監督とのトークでも、ズームやトラックインを多用した撮影について「ずっと何か起きそうな予感がする」と指摘されている。

だから観ている私は、「この医者……大丈夫か?」から入る。

ずっとマッドサイエンティストなんだよ。

面白いのは、制作側は逆に漆原を悪人として作ったつもりではないこと。

染谷将太は演じる際、「彼の中には善意しかない」と考えていたという。

𠮷田監督も、原作者や染谷と「漆原をサイコパスとしては描かない」という認識を共有し、究極の善意から行動している人物として作ったと説明している。

分かる。

分かるんだけど、

私には怖く見えすぎた。

私はもっと「外面がいい漆原」を想像していた

原作では、漆原が海外で医療に携わっていた頃から、人に認められるような妙なカリスマ性を持った人物として見える。

私はもっと、「外面のいい人」を想像していた。

話せば納得してしまう。
人が付いてくる。
だからこそAケアも広がる。

あんな仏頂面なわけがない。

少なくとも私が原作から想像した漆原はそうだった。
一度「この人の言ってること分かるな」と信用したからこそ、後半で外側から見た時に効く。

映画みたいに最初から、「こいつ絶対なんかあるだろ」と見せられてしまうと、

後半で人物像が崩れても、「ほらやっぱりなんかあったじゃん」になってしまう。

不倫を消すなら、怪文書も消してくれ

映画では、原作にあった漆原の不倫など、俗っぽい部分がかなり整理されている。

それ自体はいい。
映画には尺がある。

何でも原作通り入れればいいとは思わない。

ただ。

だったら、あの怪文書も消してくれ。

映画では漆原のもとに妙な文書が届く。

原作を読んでいる私は、その周辺に何があるのか分かる。

でも、そこにつながる人物関係をかなり削っているので、映画だけ観ると怪文書が妙に宙ぶらりんに感じた。

何だったんだよ、あれ。

モヤモヤするだろうが。

そして私にとって不倫を削ったことは、単なるサブエピソード削除でもない。

「患者のことだけを考えている超人」ではなく、

前の病院の連中を見返したいし、不倫もするフツーの人間

だったことまで含めて、漆原という人物のおもしろさだったからだ。

映画ではそこがかなり綺麗になったことで、逆に「Aケアに取り憑かれた特殊な医者」に見えてしまった。


ただ、原作と同じ見せ方を映画でやらなかった理由は分かる

ここまで書くと、

「じゃあ原作と同じように前半は漆原目線、後半は他人目線で映画を作ればよかったじゃん」となる。

でも、それも少し違うと思っている。

そのまま映像化すると『でっちあげ』の二番煎じ

原作の、

漆原本人から見た漆原
→ 他人から見た漆原

という構造を、そのまま映画で映像化したらどうなるか。
かなり「どんでん返し」っぽくなると思う。

ここで思い出したのが、映画『でっちあげ ~殺人教師と呼ばれた男』。

あの映画では、同じ家庭訪問を告発する側と告発される側、それぞれの供述から見せる。
公式でも「あなたはどちらの供述を信じますか?」と、二人の見え方の違い自体を大きな見せ場として打ち出していた。

『でっちあげ』では、それが映画の仕掛けとして成立している。
でも『廃用身』で原作の構造をそのまま映像化すると、

「前半で見せていた漆原は実は……!」
みたいな作品になりかねない。
私は小説『廃用身』を、そんなどんでん返し小説として読んでいない。

漆原が隠していた真実を暴く話ではないからだ。

ただ視点が増えただけ。

でも、視点が増えただけで、同じ人間が全然違って見える。

そこがおもしろい。

だから映画版が、原作の構造をそのまま再現して「はい、実はこうでした」とやらなかった気持ちはかなり分かる。

私だって、『廃用身』を『でっちあげ』にしてほしかったわけではない。

それでも「自認とのズレ」は残してほしかった

映画がどんでん返しを避けた。
そこはいい。

むしろ、その選択には納得している。

ただ、

どんでん返しを避けることと、漆原の自己認識と他人から見た漆原のズレまで薄くすることは別じゃないか?

とも思う。

もう少しだけ、「漆原本人が思っている自分」と、「他人が見ている漆原」に差があってもよかった。

そこが残っていれば、Aケアの是非とは別に、「自分って結局、誰が決めるんだろう」
という原作の気持ち悪さも、もう少し映画に残った気がする。


それでも映画館で観てよかったと思う

ここまでかなり文句を書いている。

ただ、映画として好きだった部分もちゃんとある。

特に画。

A24っぽい不穏な構図はかなり好き

ちょっとA24作品っぽいというか、妙に整っているのに不穏な画が多い。
なかでも印象的だったのが、切断した廃用身を漆原が持っている場面。

なんというか、パサパサの切り株みたいなのである。

(画像は映画.com廃用身ページより)

あれはかなり強かった。

メインビジュアルにもなっているし、一発で覚える。


しかも𠮷田監督は、欠損自体をショッキングな見世物として撮りたくなかったと話している。
切断を細かいカットで煽らず、人物と空間の中で見せることで、観客が少し距離を取って考えられるようにしたという。

原作の読み取りについては私はかなり違う。

でも、映画としてどう見せるかを考えている画は好きだった。

映画館で観たのもよかったと思う。

漆原がやたら走る

そして、この映画では漆原が妙によく走る。

正直、ちょっと分かりやすすぎない?とも思った。

ただ、やりたいことはかなり明確だと思う。

身体を自由に動かせない老人たち。

それに対して、自分の身体を好きなように使って走る漆原。

Aケアという話そのものが身体についての話なので、その対比を画で見せたいんだろうな、というのは分かる。

わざとらしい。

でも、分かりやすい。

私は嫌いじゃない。

異人坂クリニック、ちょっと綺麗すぎない?

ロケーション自体もかなりそれっぽい。

古い病院を改装したような建物で、私が原作を読んで想像していた異人坂クリニックにも近い。

ただ、なんか中がこざっぱりしすぎている。

小道具なのか。
生活感なのか。

高齢者が毎日通って、職員が働いて、いろんな人間の生活が積み重なっている場所にしては妙に整っている。

原作を読んだ時の私の頭の中では、もう少しゴチャッとしていた。

これは完全に好みなんだけどね。


原作と映画では、ラストの感触が全然違った

そして、一番大きく違ったのがラスト。

原作は「あと少しだったのに……」だった

小説を読み終えた時、私は、

「あと少しだったのに……」

と思った。

漆原ではなく、記者の方にかなり感情移入していた。

最初は普通に見ていた。

本来なら、そこまで漆原を気にしなくてもよかったはずなのに。

周囲から情報を与えられ、漆原を疑い、どんどん追いかけていく。

煽動って怖いな。
と思う。

でもそこで、「いや待て」ともなる。

漆原だって、Aケアを説明して人を動かしていた。

じゃあ漆原は完全な被害者なのか。

それも違う。
悪人なのか。
それも違う。

なんとも言えない。

原作を読み終えた私は、この何とも言えなさがかなり好きだった。

映画は「でもAケアって正しかったのかも」に見えた

映画版は、私には少し違って見えた。

かなり乱暴に言えば、

「漆原、悪いやつだと思ったでしょ? ほら。でもAケアって実は正しかったのかもよ」

という方向に着地したように感じた。

もちろん映画は、「Aケアは正しい!」なんて断言していない。

むしろ𠮷田監督は、答えを一つに絞らず、Aケアを受けた人々のさまざまな行く末を描きたかったと話している。
映画版のラストも「回復した姿」そのものではなく、「回復の予感」を描くことを意識したという。

だから映画の狙いも分かる。

ただ私は、その問い、原作を読み終わった時にはそんなに中心じゃなかったんだよなと思ってしまった。


私と監督では、この小説のおもしろかった場所が違う

𠮷田光希監督は、学生時代に原作と出会ってから約20年、この映画化企画を温めてきたという。

だから当然、「監督が原作をちゃんと読んでない」なんて話ではない。

むしろ、とんでもなく読んでいる。

原作者の久坂部羊も映画版をかなり高く評価している。

完成した映画を観た後に久しぶりに原作を読み返し、「染谷将太をモデルに当て書きしたんだっけ?」と思うほど、映画の漆原と自分の書いた漆原が一致して見えたと話している。

染谷将太も、「彼の中には善意しかない」というところから漆原を演じている。

つまり、原作者も監督も主演も、かなり納得している。

私は映画館で、「いや、漆原もっと外面よかっただろ!」と思っている。
まあ、そういうこともある。

むしろ映画化のおもしろさって、そこなのかもしれない。

同じ小説を読んでも、どこを一番おもしろいと思ったかによって、出来上がるものはここまで変わる。

私は原作『廃用身』を、「Aケアは正しいのか?」という話として一番強くは読まなかった。

私がおもしろかったのは、

漆原が思っている漆原と、他人から見た漆原がズレていること。

そして、

他人を動かしていたはずの人間が、最後には他人から作られた自分に飲み込まれていくこと。

映画は、原作の構造をそのまま使って安っぽいどんでん返しにはしなかった。

そこは分かる。かなり分かる。

でも、それでも私はもう少し、「漆原って結局どういう人間だったんだろう」という原作の気持ち悪さを残してほしかった。

映画館で『廃用身』を観て、改めて思った。

やっぱり小説『廃用身』、おもしろすぎる。

映画でモヤモヤした人には、むしろ原作を読んでみてほしい。

同じ『廃用身』なのに、漆原という人間がかなり違って見えるはずだ。

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